6日本文化の問題

西田幾多郎 著 岩波新書 赤判 
1940年3月30日初版 1982年3月19日特装版 発行

序において、まず「この書は1昨年京大の月曜講義において話した所のものを敷演したのである。」書き出している。そして「此の書は量に於いて、質に於いて、面目を一新した。」と書き綴った後「ただし兎に角それが此の書を書く機縁となったのである。」と続く。

読み終えて、またこの序に戻り、序がこの著作の意味を簡潔にまとめているということ改めて納得。彼のいう前半は、「問題を論ずるにあたって、根底となる考えの要点をのべたもの」は、力不足の自分が理解するには難解極まりなかった。まさに「哲学的思索にに慣れない人」であり「あまりに専門的にして理解しがたい」のである。後半は、彼が言うように「私の云わんと欲する所を大体に於いて了解せられる」内容のようだった。

まず、頭に残るが、理解しがたい部分が、「我々が生命と云うものを考える時、いつも単に有機体を中心としてそれと環境との関係を考える。」「併し生命の現象と云うのは、具体的には矛盾的自己同一的世界の自己形成として考えられなければならない。」である。ここから文のところどころで「矛盾的自己同一」という言葉が頻繁に使われる。此の言葉の理解が出来ない。

さて題名にもある「日本文化」であるが、彼は、その特色を「主体から環境へと云う方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うのあるのではないか」といっている。「日本精神の真髄は、物に於いて、事に於いて一となるというこどでなければならない」のである。そして、彼の云う日本の使命とは(東亜の建設者なのだそうで)「矛盾的自己同一的に事物に於いて結合する1つの世界を構成すること」で、彼の云う帝国主義は「他の主体に対し、他の主体を否定し他を自己となさんごとき」なのだそうだ。そしてこれは、「日本精神ではない」のだ。

読み進めていくと、これまでの日本の精神形成の歴史やら、影響を受けたであろう西洋など他国の歴史、精神を論理的に述べられていることは理解できる。では、何が問題なのか。

やはり「矛盾的自己同一」がキーワードのようである。芸術であれ、科学であれ。